2017-05-10 第193回国会 参議院 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 第3号
平壌の招待所の中を散歩中の薫と石岡亨さんの二人が北朝鮮はいいところだと聞いていたけど何もないところだねと話していたとき、擦れ違った方が田口八重子さんだったそうです。日本に帰国し、資料を見たとき、薫さんと石岡さんではないかと思いましたと言ってくださいました。拉致された家族は皆元気でいるのだと少し安心いたしました。
平壌の招待所の中を散歩中の薫と石岡亨さんの二人が北朝鮮はいいところだと聞いていたけど何もないところだねと話していたとき、擦れ違った方が田口八重子さんだったそうです。日本に帰国し、資料を見たとき、薫さんと石岡さんではないかと思いましたと言ってくださいました。拉致された家族は皆元気でいるのだと少し安心いたしました。
彼ら、彼女らは、北朝鮮の招待所で多くのその他の拉致被害者と共同生活をされていたと思います。そういうことを一部発言されていらっしゃいますけれども、彼ら五人は、大阪の誰それもいてた、あるいは東京の誰それもいてた、あるいはその他何十人の拉致被害者もいてたということをほとんど御存じなんですけれども、これについて全くと言っていいほど発言されていらっしゃらない。
多くの拉致被害者の方々と、どうも北朝鮮で、招待所で、日々同じように、十年あるいは二十年と生活をしてきたということがうかがい知れるわけなんですけれども、そのあたりを解明していきますと、拉致事件の全容、どれだけ多くの人数が北朝鮮に拉致されたかということが把握できてくるであろうと思います。 ところが、今大臣おっしゃいました、我々は把握しているし、精いっぱい努力をしている。
さらにもう一つ言わせていただきますと、一九七九年の九月に亡くなったと言っていますけれども、祐木子さんは私の姉と一九七九年の十月まで一緒に招待所で暮らしていた。その後、るみ子さんは結婚のために私とは別れたということは、その十月以降に結婚したことになりますので、その前に市川修一さんが死んでいるというこの情報も、非常に怪しいというか、信頼に足らないものだと私は思っております。
その蓮池さんが、なぜ自分たちが日本に戻ってくることができたのかということを振り返ったときに、帰国者は二〇〇二年の九月十七日、小泉訪朝の一か月後、十月に戻ってきておりますから、その当時の経済状況を振り返ったときに、北朝鮮に入ってから本当に、招待所である程度の生活が保障されて、なかなか大変だったけれども暮らしを続けてきた、だけど、自分たちは一般の北朝鮮国民よりもいい暮らしをしていたんだけれども、その暮らしにおいてもだんだんだんだん
今回の面会におきまして、金賢姫氏は、同僚の工作員金淑姫の話として、一九八四年末の時点で田口八重子さんが結婚していたという事実はないこと、また、一九八六年にひとり暮らしをしていた拉致被害者らが結婚させられたと聞き、田口さんも結婚したと思ったこと、一九八七年二月から十月まで自分が招待所にいた間、だれも死亡したと聞いたことはない旨述べているところでございます。
それをつまびらかにせよとは言いませんが、例えば、拉致された日本人が北朝鮮のここの招待所にいるのではないか、日本人と思われる人たちが働かされているのはここではないか、日本人が働かされているのここではないだろうか、こういう情報を、今いらっしゃる日本に帰ってきた方々、あるいは北朝鮮から逃げてきた脱北者の方々、最近よくテレビでも元軍人やら元工作員やらいろいろな方々が出てきますけれども、こういう方々から集めた
といいますのは、七月の四日に日本人記者団を平壌に招待して、そして翌日の朝にテポドンを発射し、そしてその後、五日ですけれども、まさにこちらがミサイル問題でわんわん騒いでいるときに招待所、火葬場を記者団に見学させ、そして六日には今の金英男氏との会見を日本人プレスに対してセットし、そして七日に、官房長官も大変記者会見でも反発されましたけれども、宋日昊日朝交渉大使、これの会見を日本人のプレスに対してセットし
それを読みますと、横田めぐみさんの生活した招待所についてというと、これは秘密警察、特殊機関の秘密になっていて答えられない、そういう答えが書かれています。そしてまた、臨時カルテについても、特殊機関が持って帰ってしまったと。また、めぐみさんの拉致が突発的なものだったという、そういうことに関連して、ならば本来業務の計画書を出せというと、これは特殊機関の秘密であって答えられない。
ただ、こういう方々、一部、これが藤田進さんという方の写真でございまして、それ以外の方は、幾つかある中で、つまり、この方は例えば拉致された日本人の中で一番出世していると言われる何とかという人間である、あるいはこの女性は日本人の拉致されてきた人間がつけていた私物を、私財を管理しているセクションにいる人間である、これは招待所で撮られた写真である、何枚かの写真を入手いたしました。
実際、細部にわたる御答弁は要りませんが、いろいろな形で、つまり、北朝鮮が用意した、向こうのおぜん立てに乗った、いわゆる、こういう人間に会いたい、あるいはこういうところに行きたい、招待所に連れていけ、病院に連れていけ、予防院に連れていけと言って、向こうの用意したところへシナリオどおりに連れていかれて、シナリオどおりの答えを向こうがして、それで満足したのか。
○中川(正)委員 さっきの話ですと、直接に拉致の犯罪にかかわっている人じゃなくて、指導員とか招待所で彼らを管理する立場にいた人の名前を列挙されました。直接の拉致の実行犯、あるいは拉致というものがどの指令系統で実行されて、だれに責任が最終的にあったのかということについてはどうだったんですか。
証人ということで我々が面談いたしましたのは、横田めぐみさんの夫であったとされるキム・チョルジュン氏、そして横田めぐみさんが入院していたとされる平壌市郊外の病院の主治医、そして田口さん、原さんが生活していたとされる招待所の職員、石岡さん、有本さんが生活していたとされる招待所の職員、石岡さん、有本さんの事故があった場所とされる招待所の職員、松木さんが生活していたとされる招待所の職員、横田さん、原さんを診察
○薮中政府参考人 今まさに整理し精査中でございますけれども、したがって幾つかの例だけで、これがすべてではございませんが、例えばということで申し上げますと、石岡さんの今のことでございますが、熙川での招待所でガス中毒で亡くなった。
十三日午前には再び陳日宝局長との間で協議を行い、午後は、安否不明の拉致被害者、そしてまた関係者、今、日本に既に帰ってこられておられます拉致被害者の方々も滞在していたと言われる平壌市郊外の招待所、これは現在は使われておりませんが、その招待所に赴きまして現地を視察したわけでございます。 十四日でございますが、さらに再び病院等、様々の関係者との面会、聞き取りを行いました。
○薮中政府参考人 その中には、さまざまの、今委員御指摘の招待所の話であるとか、当然ございますが、そもそも、我々はまだ十名の安否不明の方々についてのきちんとした安否不明の情報は得ていないということが基本でございまして、それについての徹底した真相を求めているわけでございます。
そして、拉致被害者は招待所に管理されていたはずです。招待所の記録を調べれば、いわゆる共産主義国家、文書主義、徹底しているんじゃありませんか。その招待所の記録も求めましたか。
○李参考人(通訳) 私が社会に出てからは、そういった話に接することができなかったので、そういった話を聞く機会はありませんでしたが、先ほど申し上げましたように、党中央の政治学校にいる時代の七二年に、招待所に行く途中、招待所で五、六人の日本人を、女性一人が多分入っていたと思いますけれども、含めた五、六人を直接この目で目撃しましたし、それから正月の休暇の際にホテルで日本の人に三年連続して会ったということです
○李参考人(通訳) その招待所というのは、まさにその政治学校の中にありまして、政治学校に入る人々はすべてまずそこに一たん入れられるわけですね。大体二カ月ぐらいいるんです。二カ月後に私が招待所の方を見ましたら、もうそこは空き家というか空っぽになっておりましたので、その人たちが政治学校を出たのか、またはほかのところに行ったのか、それはよくわかりません。
○漆原小委員 李さんは、招待所で日本人を六人、女性が一人、男性が五人、見かけたとおっしゃいますが、北朝鮮の招待所で日本人を見かけたのは、それが最初でしょうか。
しかし、日本人拉致者は招待所で不自由ない生活を送っていたと帰国された被害者の方々はおっしゃっています。また、先ほどの統計は、単なるある年齢での生死という事実に基づいたものです。今回の北朝鮮の発表による死亡原因を見ると、それは余りにも異常です。交通事故死が二人、石炭ガス事故死二人、溺死が一人、自殺者が一人と、病死はたったの二人という結果です。
この会のお話によりますと、昨年八月二十四日、朝鮮日報は、九〇年代末までにピョンヤン、平壌に、八人の拉致された日本人がピョンチョン地区アンサン招待所に集団生活していることが確認されたと報じたと言われているわけです。 救う会が、それに基づきまして調べた。
そんなふうに話をする招待所のおばさん 招待所というのは収容所のことです。その おばさんの純朴な顔には、見るも哀れ、聞くも哀れだという同情の表情がうかがえた。 そして、拉致されてきた人の話は一つや二つではなかった。 ある人は、連れてこられるときから強く反抗したために、北朝鮮に着いたときには満 身傷だらけの姿であった。
かつてはそこはいわゆる招待所という形で使われていたところを借り上げてやっている。庭はかなり広いんですけれども、そういうところでございました。日本の小中学生が受益できる施設設備なり教育環境というような面からしますと大変厳しい状況の中で、派遣された先生方も大変御苦労されているという実態を見てまいりました。
それからまた、金賢姫からのいろいろな事情聴取で、一九八四年、金賢姫が招待所におりましたときに、その年の七月に旅券用の写真を撮影し、それからまた八月にそれに署名をしたというようなことがわかっております。そういったいろいろな諸点を総合いたしまして、北朝鮮において偽造されたというふうに私どもは考えております。
○橋本敦君 外務省にもう一点聞きますが、その申相玉氏あるいは崔銀姫氏ですが、北朝鮮に連行されたときに、いわゆる東北里招待所、これは訓練所とも金賢姫は言っておりますが、その訓練所で日本人を目撃したということを言っているという情報があるようですが、事実はどうですか。
また、恩恵が最初に招待所に来たときは泣いていたというようなことを金賢姫は聞いておる。こういった状況がわかっておるわけでございます。 そういったものを総合いたしますと、やはり自発的に来たという状況はどうしても出てこない。やはり自分の意思に反して拉致されてきたというような疑いが強く持たれるわけでございます。